八幡宮寺領荘園・八幡別宮総覧

中世石清水八幡宮寺の荘園や別宮を総覧します

丹波・何鹿郡・於与岐別宮について

丹波国何鹿郡に於与岐別宮を追加しました。

於与岐別宮に関する史料は、元暦二年(1185)六月日丹後国池内保百姓等陳状に見えます。本文書は、前半部と後半部とが別々の状態で伝わっており、前半部が東京大学史料編纂所架蔵の影写本「山科家古文書」、後半部が島田乾三郎氏所蔵文書中にありました。このうち後半部は『平安遺文』で活字化されていました(『平』4261号)が、石井進氏によって両者が一体の文書であることが明らかにされました(「源平争乱期の八条院領―「八条院庁文書」を中心に―」『石井進著作集』第7巻『中世史料論の世界』岩波書店、2005年。初出は1988年、永原慶二・佐々木潤之介編『日本中世史研究の軌跡』東京大学出版会。)。さらにその成果が『宮津市史』の通史編・史料編に活用されました(『宮津市史』史料編 1996年、同通史編 2002年)。

 

陳状の内容は、丹後国池内保と丹波国於与岐別宮との間の相論について、於与岐別宮側が池内保の山野を買い取ったという点、於与岐別宮の庄倉にあった御供料稲二百石や竈殿の釜・鍋などが盗まれた事件の犯人に関する点に対する池内保側の反論です。

 

なおその後の史料上の所見は、寛正二年(一四六一)の何鹿郡所領注文(安国寺文書)に「於与記」とみえ、現地には惣社八幡宮が鎮座しているとあります(『日本歴史地名大系』平凡社、JapanKnowledge)。現在では於与岐八幡宮と称されているようです(http://www.ayabun.net/kaiho/64/oyogi8.html)。

 

於与岐別宮についての詳しい分析は、後考を期したいと思います。